指導者の矜持

指導者というと非常に偉そうに聴こえるかもしれませんが、

後輩に対して、自分の持てる知識や技術を伝える者、

そして、誤った方法を指摘し助言して、

指導する立場という人は非常に大切だと思います。

 

私も僭越ながら、カウンセリングの指導に携わる機会があり、

私の持てる少ない知識や経験を伝えさせて頂いております。

 

その中で、指導者の矜持というものを考える機会があります。

私は自分が教える時には、自分がやってみせられるもの、

自分が使いこなせる知識、技術しか教えることができません。

 

私が出来ないこと、私が知らない事を

偉そうに教えることは出来ないと思っています。

 

ただ、私の考え方は珍しいようで、

別の所では指導者は色々と技法を教えてくれるそうですが、

一度も実践の場で見せて貰ったことがなく、

どのように教わったことを活かせればいいのか分からないという方がいました。

 

どうも話を聴くと、その指導者は自分の教えていることを

実践として見せる実力がなく、理論は教えるけれども、

実践できないようです。

 

私はその理論を聴いて、自分なりの解釈ではありますが、

そのカウンセリング技術を生徒に見せると、

「初めて分かりました」と言って頂きました。

 

私は、私が指導者として携わった生徒の理解が進んで、

勉強になったことに喜ぶ気持ちがありますが、

一方で、その団体の指導者に何か釈然としない気持ちになりました。

 

私たちは時々、簡単に指導者になると思います。

例えば、子供に勉強を教える時、

例えば、後輩に仕事を教える時、

このような時には自分が理解できる事、自分が出来ることを教えていると思います。

 

では、子供が人間関係で悩んでいるとき、

もしくは、後輩が仕事の進め方で悩んでいるとき、

このような時に「そんな時はこんな風にしないとだめでしょ」などの指導を

してはいないでしょうか。

 

そんな時に私は思っています。

自分自身は人間関係で問題を抱えることはないのでしょうか。

新しい仕事が舞い込んできて、仕事の段取りで悩むことなく進める事ができるのでしょうか、

 

私は、自分がしっかりと実践できることを指導し、

実践できない事は、一緒に考えて、その場面での答えを一緒に探す

相談者になるように心がけています。

この姿勢を否定され、指導者ならしっかりとしないといけないと言われることがあります。

 

しかし、指導を受ける人の疑問をあいまいにして、モヤモヤさせるのであれば、

私はしっかりと答えを提示するか、もしくはしっかりと答えを持ちながらも、

生徒に考えさせられるように接していきたいと思います。

 

そんな指導者の矜持を抱きながら、

多くの人に指導をさせて頂く機会を頂いた一年間でした。

来年はさらに多くの方の指導を行う機会が訪れそうなので、

自分自身が自信を持って成長できるよう、より一層の成長をしたいと思います。

 

そんな風に指導が終わった後に考えさせて頂いた

今日この頃です。