誰の責任か

何か物事が起こった時に、それは誰の責任か?という事を追求されることを

体験された方は多いと思います。

 

私が幼稚園の頃に、幼稚園に置いてあった太鼓が壊れたことがありました。

その際に、誰が壊したかという話になり、太鼓が触った人を立たされました。

私も確か、太鼓がどんなモノか興味があり、触ったため、立った所、

非常に怒られた経験があります。

 

何か物事があった時に、それは誰の責任かと追求されますが、

では、自分の人生が大変だと感じる方は誰の責任なのでしょうか。

世の中?社会?自分?親?兄弟?

全てに責任があるようにも、無いようにも感じる方もいれません。

 

ただ、私が思うに、責任をはっきりさせた方が良いことと、

責任をはっきりさせようと頑張る事自体が大変な事に繋がることがあると思います。

 

例えば、仕事上で大きなトラブルがあった際には、

再発防止と、お客様に迷惑を掛けた責任の所在をはっきりさせ、

謝罪を行なうという行為は必要だと思います。

さらには、責任者がはっきりとしている事で安心感を相手に与える事もあるでしょう。

誰が、責任なのかを考えることで有意義なことがあります。

 

一方で、自分の人生が大変で、生き辛いと感じる方がいます。

このような方の中には、ご両親から虐待を受けて育った方や、

幼い頃に学校で居場所が無く、人との接し方に悩んだ方などがいます。

そして、大きくなった現在でも、過去の記憶に悩まされています。

 

このような時に、自分が苦しんでいる原因・責任を探して、

誰かのせいや、自分の責任と考えて、

責めてしまう方も居ます。

 

ただ、ここで責任の所在を突き詰めても、

自分のせいと考えても、その先に改善や解決はあるでしょうか。

 

次回以降の改善や解決に繋がるのであれば原因分析は必要でしょう。

責任の所在をはっきりさせることは大切です。

一方で、改善や解決に繋がらない、さらには社会的に責任を取らないといけないことでなければ、

責任の所在を探しても、あまり意味がないのかもしれません。

 

それが自分自身の生き辛さに関係することなら、

責任や原因を探しても徒労感が募るだけかもしれません。

 

誰の責任か、を考えるのでも良いでしょうが、

一方で、どうすれば今の状況が改善されるのか、も大変重要です。

 

原因探しを辞める勇気も時には必要です。

誰の責任か、に囚われてしんどくなっているのであれば、

それを止めて、良くなる方法を一緒に考えたいと思う今日この頃です。