清廉潔白

人は清く正しく美しくありたいという気持ちがどこかにあるのかもしれません。

中には、清く正しくない自分は駄目だと責めてしまう人がいます。

でも、本当にそうなのかと疑問に感じてしまう時があります。


下心を持って皆さんと仲良くなりたい人がいたとします。

皆さんはどう感じますか?

嫌な感じがしますか?それとも気にしないですか?

では、皆さんは誰かと近づきたい、仲良くなりたいという時には、

私心があるでしょうか?


私は、下心があっても良いと思います。

初めの切っ掛けがどんな物であれ、その後の付き合いが、

私心を越えたお互いを思い合う、支えあう人間関係になれば、

それはそれで、良いのではないかと思います。


勿論、下心や私心だけを押し付けてくる人間関係は嫌だと感じてしまうので、

もし初めの切っ掛けだけではなく、継続的にそのような私心を押し付けてくる関係になりそうなら、

離れてしまう事も良いと思います。


ただ、初めから下心がある事や、私心を持っている事を責める必要も無く、

下心を持って人に近づこうとする自分は何て汚い人間なんだと落ち込む必要も無いと思います。


『水清ければ魚は棲まず』ということわざがあります。

清廉潔白、常に清ければいいという訳ではありません。

きっと人間で本当に清い人がいれば、その隣で立つ事は、

とても息苦しい事なのではないかと思います。


欠点があり、短所があり、私心があり、汚い部分も多少はあり、

それでも清くありたい、自分らしくありたい、人と仲良くなりたい、

そのようにその人なりに生きている姿が、人間らしく

愛着を感じるのではないかなと私は思っています。


自分の駄目さを受け止められない人は、

人に対して過剰に清さを求めてくる場合があり、

私心がある事を責めてしまう人もいます。


そのような言葉は気にせず、

自分らしく、私心があってもいいじゃないか、下心があってもいいじゃないか。

下心は勿論あるけれど、相手の事を思い遣りたいんだ、相手と良い関係を築きたいんだ

そのように思えるのであればいいのでは無いかと思います。


私からみると、充分に清い心の持ち主の方が、

自分は汚い人間だと嘆く姿を見て、そのように感じました。


もしかすると、真っ白なシーツに一点汚れがあると目立つように、

清い心に近い人の方が自分自身の汚さに目が行くのかもしれません。

私のように灰色の心にでは汚れが目立ち難いのかもしれません(笑)


もし、自分の考えは汚いと責めてしまう気持ちが出たときには、

本当は清い心に近いから、汚いと感じてしまうんだと思って見て下さい。

そして、その汚いと思う部分こそは人間らしさと思ってみてはどうでしょうか。


そのように感じる方と出会いました。