出来る事を前提に考える、出来ない事を前提に考える。

性善説、性悪説は聞いた事がある方が多いと思います。


性善説・・・人間は善を行うべき道徳的本性を先天的に有しており、悪の行為はその本性を汚損・隠蔽することから起こるとする説。孟子が唱える。

性悪説・・・人間の本性を利己的欲望とみて、善の行為は後天的習得によって可能とする説。孟子の性善説に対立して荀子が唱える


この二つのどちらの説を取るのかにより、法律や人への接し方が少し変わって来る場合があります。
私はどっちも人はあり得るので、人により違うのかなと考えています。


さて、それに近い事で悩んでいる事があります。
それは、出来る説と出来ない説と言えばいいのでしょうか。
人は物事を出来るものだと見て、対応すればいいのか。
人は物事を出来ないものだと見て、対応すればいいのか、という事です。


例えば、目標に向かって頑張る事に関して、よく新年に一年の目標を立てると思います。
この目標は果たして達成できているでしょうか。
ある方は、きちんと目標を立てた通りに行動し、成し遂げていく方もいるでしょう。
一方で多くの人は、年始に目標を立てても1年間を通して目標に向かって頑張れず三日坊主になっています。


人に対して、目標を立ててやっていきましょう!とだけ伝える人や、
仕事のやり方を一度だけ伝え、やらせてみて出来ていないと怒る方は
目標を立てれば、その通りにできるという説に立って物事を考える、
出来る説の人だと思います。


一方で私は、出来ない説を掲げているので、やっていきましょう!と言っても出来ないと思っています。
行動し失敗したり、長続きしない時に、どうして出来なかったのか、どのようにすれば出来るのか、
一緒に考えていきましょう!と考えます。
一度の説明で出来る人は凄い人で、何回も説明し、やって見せて初めて出来るようになると考えているのです。
そして、少しずつ出来るようになっていけば良いと考えています。


そして、私自身、目標を掲げても、心が弱い為、なかなか継続できません。
それを自分では良く分かっているため、一緒に勉強してくれる人や、私を監督してくれる人を見つけます。
そのような人たちと目標に向かって、勉強を積み重ね、今に至っています。


皆さんは、出来る説でしょうか、それとも出来ない説でしょうか。
そして皆さんが教える相手は、どちらの説に近い人でしょうか。
出来る人には、一度だけ説明し考えさせて成長させる事ができます。
出来ない人には、幾度も説明し、やって失敗させて、学び成長させる事が必要です。
どちらの方にも対応できるようにする事が、人を教え育てる事に必要かなと考える今日この頃です。